月見草

一年中強い風の吹いている海辺の養護学校に、コントラストのはっきりした陽射しが乾いた影を落としていた。花壇には潮風に強いカンナや松葉ボタンのほかに百日草やダリアが咲いていた。這いつくばるようにしゃがみ込んで手入れをする老夫婦の用務員の姿がボンヤリと動くだけの午後、抜いてもぬいても雑草だけは生えてくる。すべての時間だけが緩く間延びしたように流れていた。
運動場で遊ぶ者はほとんどいなかった。喘息の子供が多かったせいか、ブランコさえ乗り手を失いポールの陰を長く地面に落とし無気力に風に揺れるだけだった。

夕食の後の自由時間はまだ電燈をつけずにいても充分な明るさがあった。寮の部屋は男の子と女の子の部屋が廊下でつながり一番奥がお便所と水のみ場兼洗面所だった。 そんな寮に寮母さん一人と生徒が男女16名ほどに別れて暮らしていた。
お風呂のない夕方が一番長く遊べる。部屋でおままごとやお絵書き、トランプなど皆何人か固まって遊んでいた。いちばん年下でみそっかすだった私は仲間に入れず、隅から眺めているだけだった。
8時になると布団を敷いて歯磨きをして、反省会を開き寮母先生からの注意を聞いて全員で「おやすみなさい」の大合唱の後、布団にもぐりこみスピーカーから流れる当直の先生が読む童話を聞きながら眠りにつくのである。
単調な中にも規律のある暮らし・・・寒い朝の乾布摩擦をのぞけばしあわせな子供達だったろう。

外の世界から遮断された塀の中は安全に守られていた。それでも終戦後間も無い当時は食料の不満から脱走を企てる上級生もいた。駅までの一本道は身を隠すところが何所にも無く、すぐ捕まってしまうのが落ちだった。容赦なく鉄棒に括られて反省させられるのだ。寮長先生は軍隊あがりのメガネをかけた男で常に木刀を携えていた。
叩いているのを見たことはなかったが子供心に木刀は恐かったし、脱走に失敗して喚いている上級生も恐かった。

寮長先生は木刀のせいで一番恐ろしい人間のように思えたのだが、その恐い先生はあろうことか私の寮の斜め下に住んでいた。社宅には妻や子供も居た。そこだけは何時までも電燈の明かりが灯りラジオの音など漏れてきて窓から湯気が立ちのぼり絶えず人の暮らす気配がしていた。なぜかその明かりから目が離せなかった。いつまでも眺めていて飽きなかったのは、そこだけに遠く離れて来た家庭の暖かさがあったからかもしれない。
いつも消灯前にぼんやりと眺めるのが私の日課となっていた。

ある夏のおわり、私達のいる部屋に、突然ぬっと寮長先生が入ってこられた。相変わらず木刀を片手に下げたまま部屋のまん中に置いてある大きい机にドッカと腰をかけるなり大声で「生徒全員集合!」と叫んだ。
仰天した子供達は遊びを止めてわらわらと群がり「正座〜っ」の声とともに押し合いながら先生の前に正座した。胸が早鐘のように騒いでどの子も泣きそうだった。
年上の子に「窓を開け〜い!」と命令する口調は毎朝の乾布摩擦の時のように厳しい軍隊調だ。

ガラスと障子が一斉に大きく開けられた。目線にはいつの間にか背丈ほどの草木がうっそうと生えている。
私がいつも覗いていた先生のお家の屋根も黒ぐろと見える。
暫くぐるっと生徒の顔を見回してから、
「今から、月見草の音を聞く。皆、月見草を知っているか〜? よ〜しこのまま全員左向け左〜ぃ」
と号令されたのだ。
全員揃って首をまわした。
窓の外を眺めるとしばらくして確かにポン、ポン、と黄色の花弁が開く音がした。
歓声を挙げる子供に「シッ」と唇に指を当てて制すると滝田寮長先生は木刀に顎を載せたままいつまでもいつまでも窓の外を眺めていた。

すっかり飽きた子供達はもじもじして正座のひざをなぜたりしはじめても、先生はジッと暗くなりはじめた外を凝視している。
そのとき私は7歳で、初めて親元を離れ集団生活に怯えるうすぼんやりした子供だったが、飽きずに月見草を眺めている寮長先生の横顔を、これも飽きずにくいいるように眺めていた。
その日から木刀を持った寮長先生は恐くなくなった。

敗戦後の日本は混乱していた。国中が貧しく、教科書もろくに揃っていない、九九の表も手作りだった。どのようないきさつから養護学園の寮長になったのかは知らないが、軍隊帰りの不器用な男の精一杯な情操教育を私達は受けてきたのだと思う。
月見草の音を何故聞かせようと思ったのだろう、目を凝らしていた先に彼は何を見、何に思いを馳せていたのか? 死んでいった戦友なのか、この国の未来だったのか、なぜ木刀を手離せなかったのか・・・今となっては知る由もないが「左向け、左〜ぃ」の号令と微かなポン、という音は今も耳に残っている。

アシスタントのN君が雨上がりの公園から月見草を手折ってきてくれた日、私は理由もなく泣いた。
なぜこの花が開く音を知っていたのか急に思い出したからだ、50年も前の音。


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