悠久の時

15歳の時初めて人工衛星が空を飛び、一目見ようとしたボーイフレンドが家の屋根に登って瓦を割ったのが昨日の事のように鮮烈に思い出せるのに、既に遠いとおいむかし。
「2001年宇宙の旅」という映画の2001年など想像なんか出来ないほど未来だと思っていたのに、僅か6ヶ月ばかり後に迎えるなんて、まるでキツネに摘まれているようだ。
目の前に聳える高層ビルの病院が昔は木造の2階建てで、タンポポの土手がのどかに続き、隅田川の花火が家の2階からでも見えた!と話してもへ〜と言われるだけのこの頃だ。
ひと昔まえ40・50は鼻たれだ!と父がよく言っていた事を急に思いだした。父が繰返し話すことがうさん臭かったのに、何だか同じ繰り返し。
そんなに長生きしたということなのだろうか。
昔、なんて言葉が私の口から出るなんて、と照れながらも歴史に想いを巡らせる日々。ふと年号を照らし合わせて見てみると流れている時間の意味に驚かされる。

西南戦争が始まったのは明治5年、私の父が生まれたのは明治45年、西郷隆盛が破れて自死してからたった35年しか経たぬ後に父は浅草に生まれている。(たった35年とみるか既に35年もと観るかは各々の感性だが・・)
袋もの問屋(今でいうところのハンドバッグ屋)の次男に産まれ、中学の時は大正天皇ご崩御の提灯行列に学校の代表に選ばれたそうだ。
冬のさなか小水を我慢するのが大変だったことだけ覚えているというのが口癖だ。こう書くとやけに古臭い人のようだし、紛れもなく古いのは事実だが、その父の中学時代の日記は統べて英語で書かれているのだ。

今それを見せてもらうと、ノートのレイアウトやペン文字の美しく綴られた文章技術などとても中学生とは思えない出来栄えだ。
軍事演習の様子など万年筆で描いた挿し絵が添えられて、その細密画にも味がある。買ってもらった万年筆が嬉しいばかりに英語を書き、それが日記を書く動機だったというのが少年らしい。

上野中学の当時の教師が赤いインクのこれも英語で丁寧に感想文を述べている。
エクセレントの文字と!のマークが何回も出てくるノートは、文法の誤りを添削しつつ教師さえ熱心なのが伺われる。共に楽しんでいる様子が見て取れるのだ。なんという豊かで進取な時代だったのだろう。
今の中学生が何人英語で日記を書いているだろうか。また、日教組先生が教科以外の提出物に添削してくれる熱心さを持ち合わせているのだろうか?
西郷どんが没して55年後には日常的に万年筆が庶民の中学生の手に握られていたのだ。
高層ビルが建ち並びインターネット時代の今日までは、たったの135年程しか経っていない。
中学生が万年筆をPCに持ち替えるまでは80年だ。長かったか短かかったかは別として、若者はその時代の宝を常に手にしていたように思う。

子供の目から見た父は東大の建築科を出て、ジャズやダンスにうつつをぬかしたモダンボーイだったので、まさか上野の山の西郷さんや明治という時代が父とシンクロしている実感がまるでないまま私は青春時代を生きていた。
父の生まれた45年は途中から大正と年号の変わった年だ。4月生まれの彼は頑に明治生まれと主張して譲らない。明治の最後に生まれたとはいえ士族男子の薫陶を受けている事が誇りなのだ、半年の差とはいえ明治男子と自らを組したかったに違いない。
徳川300年の歴史が明治と成り、江戸から東京と呼び名が変わり西洋化が著しい時代、洋式化が進んでも士族の教えは根強く残って日本を支えていたのではないか、と想像出来る。
そんな教育のされ方をした最後の世代が父達じゃないだろうか。

私が今興味を持って調べている人間は士族から子爵になり台湾総領事、東京都知事となり関東大震災の復興委員となり、大風呂敷と笑われ失意のうちに死んだ後藤新兵や明治に活躍した男達を支えた婦女についてである。また前後して当時の右翼頭山満、異才中村天風などを調べてゆくと神風連に行き当たる。大和魂の骨格となるあの神風精神だ。戦争中、間違って使われた神風を本来の姿に戻し教えることは可能か、等など・・・。

神風連の事を調べていたら西南戦争当時「人参畑塾」という私学塾を開いていた、医師の娘で高場乱(おさむ)という女性の存在を知った。血気盛んな青年を指導し、捕らえられて獄に繋がれた人々にもこっそり当時は誰もが嫌がる牛のスープなど差し入れて精をつけさせていた・・・というような記述が目に止まる。どの時代にも凄い女性がいたものだ。四つ足と蔑まれたものが本当は身体に良いことをいち早く知っていた女性が当時いたとは興味がつきない。
歴史上の人物の足跡を辿るうちに想像力がいやでも膨らむのだ。

南方熊楠、という方も尋常ならぬ気骨の粘菌学者である。しかも顔が良い。面魂が尋常ではないのに驚く。
明治は建築でも洋装でも模倣に完璧を喫したためか不安定なところがない。よくこんな様式を日本の当時の職人が再現出来たものだと感心するほど完成度が高いのは東京駅や旧明治生命ビルなどをみてもわかる。ちょっと前まで丁髷を結って刀を差していた人間が180度見事に西洋化出来る下地が日本人のどんな気質にあったのだろうか?それほど進取の気性に富んでいたのだろうか?考えるとつくづく畏れ入る。

明治は遠くなりにけり、とすっかり忘れていたけれど、掘り起こせば気骨、気概共優れた人物は尽く明治という時代の薫風を受けているのだ。
職人が元気だったのも頼もしい。分相応に暮らし恥じるところがなかったのも潔い。これはもう一度掘り起こすべき価値はありはしないか?

さてそれは結論つけず置いておくとして私から21世紀を目前にして直言を一つ。
女性は唯一子孫を産み育てる能力を頂いているのだから、自分達女性が21世紀に素晴らしく意気の良い男を育てあげるぞ!くらいの気概をみせて欲しい。明治時代の男達の背景を学び直すくらいの心意気と自覚が欲しいと、考えるのだが・・・子を持つことを畏れる人が多すぎる。
明治を遠くしてはいけない。何故なら日本の男女が最も輝いていた時代だからだ。
子供が包丁を隠し持っているのを見つけたら、取りあげるべきである。
「それほどの怒を納められないなら母の胸を刺して、屍を跨いで行け」と叫ぶ母でいて欲しい。


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