顔はかわる

どうしても書いておきたい事がある。
それは人の顔についてである。私はある時鏡に写った自分の顔をみて、来た!と思った。そこには昨日までの呑気な表情がかき消えていたからだ。
人生を楽観で生き抜いたような、運だけが全てだった何も考えていない顔がすでに失われていた。

昔、易者さんに58歳までは大丈夫!ただその後は覚悟が要るよ・・・といわれてドキリとしたその年令にすでに来てしまっている。
確かにけっこうハードな人生だったけれど臆病だった事はなく、むしろファイトをバネになんとか誤魔化しながら乗り越えてきた。 もはやそんな楽天的思考は通用しないと言うのか?
老年に運から見放される・・ということは私は最終的には運の悪い人間というわけか?晩年に運が悪いなんて最悪だ。あせった私はそのときの易者さんに何とか最晩年運を良くする方法はありませんか?と食い下がって聞いてみた。すると当の易者さんは「あるよ、最高潮の時に運を使いきってしまわない事!」と一言。
「それはたとえばどうするのでしょうか?」尚も質問する私に「それを考えることが開運につながる・・・毎日、使い切らない運とは何か?自問自答せよ」と言ったのです。
当時の私はそんな禅問答のような答えが少し不服で結局方法は分からないって事なんだ・・と内心がっかりした記憶がある。
人間は欲望が洋服を着ているようなものだ!運に見放されるまでのほほんとお茶をしてはいられない、最終的には自分が可愛いいにきまっているから守りに入る、無い知恵を絞って考える、あがく。易者の言葉どうりには成らないぞ!と思いつつも頭の片隅で使い切らない運とは?年柄年中自問する自分がいた。今考えてみるとその昔出会った易者さんは相当な方だったに違い無い、自分で考えろ!と言い切ったのだから。私の精神を支えるある思想のようなものの根源は自力と中庸の一言だ。この中庸こそが「使いきらない運」という答えにピッタリと符号することに今なら自信が持てるが。ぼんやりした極楽トンボの私がしらずしらずの内に暗示にかけられていたのだろうか?、最晩年へ備える覚悟みたいなものは彼の一言が鍵だった。本能のまま生きることの滑稽さを知り、楽しみを先きのばしすることによって、目先の欲望が意外にも萎える事実さえ知った。つまり発想の転換だ。
気持ちを誤魔化すのでは無く、人格を変化させることによって許容できる範囲の感性を想像してみたり・・個性なんて本当は自己弁護の鎧かも?と疑ってみたりして。
とりあえず変化することを恐れないようにしてみた。固守するものなんて尊厳だけでいい・・とも。
結果、突然私は顔が変わったのである。老成とは程遠いお間抜けな顔が恥ずかしかったが、やっと近頃人並みに大人の顔になりつつある。美醜なぞ問題にしたことはかつて無かったが元来男顔なので、心にかけるのはひとえに険を張り付けない..と祈るだけである。その時その時代を真剣に生ききる顔は変化して当然である。
嵐やお祭りの通りすぎた顔に労りの眼差しを向ける近ごろの朝である。嫌も応もない自分の顔だ。逃げるわけにいかない。


Retour