ティッシュペーパー 1

79年夏、仕事で生まれて初めてのニューヨークへ行った。 私の年代にとってアメリカ、それもニューヨークは憧れであった。 しかも一ヶ月の長期滞在、胸が踊る。 現地での仕事がスムースに運ぶように準備万端整えて、意気揚々と憧れの地に乗り込んだ。
ところが。 ケネディ空港を出るといきなり臭い。 道路も穴だらけゴミだらけ。 今とは違って当時のニューヨークの街は意外に汚かった。
「なんで?」と聞くとタクシーの運ちゃんやドラッグ・ストアの親父さんは全員声を揃えて「金がないからさ!」と叫ぶのが不思議だった。
「えっ、だって金持ちなんでしょうこの国は・・・違うの?」マンハッタンに人々が住まなくなって税金を落とさないからだと言う人もいたけどどうなんだろう。
ハリウッド映画で知っているリッチな世界のイメージとはちょっと違って、現実のマンハッタンは多様な人種のるつぼ、人と車がゴチャゴチャ入り交り秩序を欠いていた。 生存競争の厳しさがそのまま街の顔になっているような感じ。 
街のタフさが気に入って帰りたくない!と思う反面、なんだ、大した事ないかもしれないアメリカなんて、という気もした。 
はっとする程美しい人は男も女も黒人が圧倒的に多かった。 警官が小柄だったのも不思議だった。 なんでも大きい人は全部ハイウェイ・パトロールに配属され、残りはチビばかりだとか。 しかも(当時)ニューヨークは危険で次々警官が殺されるため成り手が無いから移民ばっかりなんだ、と尤もらしく答えてくれたけど本当のところは定かではない。 たしかに私達の滞在中にもよく通っていたリンカーントンネルで警官が2人殺された。
大型のロケバスを自由に出し入れ出来るホテルがマンハッタンには無かった。 撮影は毎朝4時出発の強行軍だから24時間出入り自由なモーテル以外許可が降りないのだ。 私達は街外れの10th.アヴェニューにあるハドソン河に面した、最も治安の悪い地域のモーテルに投宿することになってしまった。 案の定、数日後スタッフ全員泥棒に遭ったのは言うまでもない。
別件でカナダにいるディレクターが戻るまでに全ての段取りをつけておく必要があった。 モデル選び、ロケハン、撮影用車両、ヘリコプター等。 プロデューサーやコーディネーターと共に早速活動を始めた。
ユニオンがうるさいのでクルーはアメリカ人を使うよう命令された。 現場にはセキュリティのために警官を2名を雇うことまで約束しなければ撮影許可が降りない、そんな時代だった。 警官を雇えるのにも驚きだったが・・・一人千ドルだった。
キャスティング事務所はブロードウェイの一等地にあった。 通行人を眺めると、ビシッとしたビジネスマンが多いウォールストリートに比べて、ブロードウェイ界隈は何やらうさんくさげな人が多かった。
エレベーターを降りると、廊下があってオフィスのドアがあるのではなく、そのまま広いオフィスになっていた。 ワンフロアーがすべてキャスティングオフィスなのだろうか。 このスタイルはわりあい多くて、オフィスを閉める時はエレベーターに鍵を掛けると知ってのけぞった。 
誰もがフレンドリーに「ハ〜ィ」と声をかけてくる。 他にも子供や老人などのオーデションが行われているようだった。 待たされている我々の部屋は冷蔵庫付きのカウンターがありお洒落で羨ましかったので、後にうちのボロ事務所でも真似した。 色んな人々が出たり入ったり勝手に飲み物を持ってゆく度に「ハ〜ィ」の攻撃が続いていた。
当時の日本では信じられない広さをオフィスとして使用しているアメリカ人に感心もし呆れもしたのだ。 後日行ったデザイナーのオフィスではエレベーターから降りたら、人が見えるのがあまりにも遥か彼方で遭難するかと思った。 ヤレヤレあそこまで辿り着かねばと手をかざし歩き始めた時ビューっと轟音がして何処からともなくローラースケートを履いた青年がすっ飛んで来たのには感心するより唖然としたのを覚えている。 ソーホーが流行りはじめた頃だろうか? TVモニターでしっかりチェックしていたらしい。 その頃のマンハッタン人種は屋上やビルの最上階に住むのがステイタスのようだった。 ロフトの不必要な広さにはかえって虚しさが匂った。 だって冬寒そうだし。
東京から手配しておいたニューヨークのスタイリストが前の仕事がずれ込むため替わりの人を紹介すると連絡してきた。 プラザホテルで落ち合った彼女は40を優に超える年令で普通の人だった。 スタイリストは若いうちだけかな、と思っていた私は彼女の年齢が意外だったし少し安堵もした。
もっと意外だったのは紹介してくれた人。 ハーバード大学の美学の助教授だか講師だかという触れ込みのジェフと名乗る彼は眼鏡をかけた、28歳なのに額が禿げあがった青年だ。 日本に男のスタイリストが皆無の時代だったし、大学の先生がスタイリストのアルバイトなんて考えにくかったので学歴はてっきり嘘だろうと内心思った。 ハーバードといえば名門だ、俄には信じ難い。 ところがアメリカという国の不思議さは人間の層の厚さにあるらしい。 何回か打ち合わせのため話すうちに件のジェフ氏、ただ者ならぬ気配を見せ始めたのだ。 過労のせいか夏風邪をひいていた私がむやみにティッシュぺーパーを使う様子に静かに抗議をするのである。
「いけないよ君、そんなに紙を無駄に使っては」
だってここはアメリカでしょう? クリネックスはおたくの国から来たものよ、なんで? じゃ何で鼻をかむの!? 頭に来た私が叫ぶとジェフは「ハンカチーフ」と静かに答えた。 な、なんたる時代遅れな、怯む私に「なんなら僕のを貸すよ」まさかそんな、人のハンカチで鼻なんか噛めない。 それに使用したハンカチを捨てるほうが余程勿体無いじゃないと言うと「あとで洗うのさ」
嫌だ不潔だバカみたい。 
私が移動にタクシーを使うのが一番お気に召さなかったようだ。 ランチ・タイムが悲惨だった。 どこでもテイクアウトかハンバーガーイン、せいぜいピザ屋である。
「いいかげんこんな食事じゃない物食べたい、本物のレストランへ案内して!」と抗議すると「レストランはアフター8だよ、昼は労働の時間だからね、労働者の食事はこれでよい。」
一時が万事その調子で余計な浪費に厳しい抗議を理路整然と受けるわけだからうざったいったらありゃしない。 生まれて始めてやって来たニューヨークで時代の先端の広告CFを撮ろうというときにケチ臭い話なんか聞いていられない。「うんうん」「あーそう」と生返事で聞き流す。
ジェフの仕事は私のイメージする衣装を聞いて五番街からダウンタウンまであらゆるブティックへ案内することだ。 モデルはVOGUEで活躍するイタリア系の美人に決まった。 ガルウィングのメルセデス・ベンツもコーディネーターが借り出してきた。 ヘリコプターも手配済み。 残る問題は衣装だけだ。
地理に明るいジェフと私とコーディネーター3人でニューヨークじゅうを回って毎日が明け暮れた。
3人共ジーンズの労動者スタイルだから4千ドル級のドレスを見せてもらう店では蔑まれて苦労した。 結局高いドレスはイメージに合わず「No,」と言いつづける私に根気よく付き合って舞台衣装のたぐいからアンティークまで案内してくれた。 美学の先生もあながち嘘では無いほど精通している。 見つからないのは条件が厳しいからだ、早朝のロケに一々アイロンをかけてる暇がないので皺にならない、色は白系でシンプル、風になびくストールがある事。 私が並べ立てる条件を黙って再確認していたジェフは「君が気に入るかどうか心配だったので言い出せなかったが、今一番元気なデザイナーがいるよ、行ってみるかい?」
もちろん!それを早く言ってよ。 それはノーマ・カマーリだった。 いわゆるトリコットドレスやカット・ソーの元祖で当時はアバンギャルドな新人だった。 一発で決まったドレスはトリコットをドレープにした伝説のチューブドレスだ。 色はクリーム、アイロンの必要なし。 ヘリコプターの乗り降りにも皺にならない丈夫さだ。
ノルマを達成して肩の荷が下りた私は自分の買い物もジェフと共にでかけた。 するとどうだ、駄目、高い、変、似合わない、とまたうるさい。
何日か行動を共にして哲学的な男である事も真面目さも理解していた。 でも初めてのアメリカだ。 自由に楽しみたい。 今までの稼ぎを使うぞと勇んで来た私である。 ヘレンデールの店先で布製の手工芸風なベルトを買おうとした時「こんなの僕が作ってあげる、高すぎるし馬鹿げてるよ、馬鹿げてる」と繰り返すジェフに私は言った。
「何よ!私の最初のニューヨーク、好きにしたい。 ティッシュも自由に使いたいし、お湯だってじゃんじゃん使いたい。 アメリカ人だってそうして来たじゃない、私のお金なんだからほっといて」するとジェフはまたもや静かに「だからアメリカは衰退してきているんだよ、日本が浪費という同じ間違いを繰返してもいいものか」と哀しそうな顔をしてジっと見つめた。
「いいのよ、日本は! 今まで散々貧乏だったんだから! もうこれ以上ついてこなくていいから」
ヘレンデールの前にジェフを置き去りにして山ほどガラクタを買い漁った私は満足だった。

大仕掛けの撮影は無事に終わり、ジェフの事はそのまま忘れていた。
帰る前日、ベルトが届いた。 色や形はそっくりだったがどこか貧乏臭い手作りのそれは、ジェフが作ってあげるといって喧嘩した結局買わず終いのベルトの上手なコピーだった。 変なやつ・・・紙袋に無造作に入れられたそれは会いもしないでフロントに預けてあった。
渋々日本に持ち帰ったベルトは使う事など1回もなく忘れ去られていた。 ひょんな時に姿を表す無用の長物を何回か捨てようとしたけれど何やら躊躇させる力がそのベルトにはあり、溜め息と共にまたゾロ仕舞い込むのが常だった。 彼の精神がとぐろまいたベルトに乗り移っていたのか? それがティッシュペーパーを使うたびに呪詛のようによみがえり、次第に節約するようになっていった。
20年の歳月が経ちバブルの絶頂期の日本の中で、意外にも地味で倹約家な自分が出来上がっていた。 バカげた事はあれっきり、その後の海外ロケでも無駄な買い物はしなくなった。 思えば確かにジェフの言う通りで、なぜあのベルトを欲しかったのかわからない。 買っていたとしても使うことなく捨てたかも。 あのときニューヨークで買ったガラクタで残っているものなどひとつもない。 流行を追えば廃れるのだ。
今の日本を予測していたようなジェフの目にさぞ愚かしい日本人の代表のような私が映っていたことだろう。
「やめて、もう沢山」と叫んだ時に見せた彼の表情があれからずっと私を哀しくさせる。
ジェフ!君はいったい何者だったの?


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