初めてのお使い

夜食におそばでも茹でるかなと戸棚を覗いていると母が降りてきて「何探しているの?」と聞かれた。
「お爺ちゃんの夜食にお蕎麦」答えると
「要らないから、今日は」と手を振る。 あれ?と目を母に向けると
「自立させようと思ってね、さっき床屋の帰りにサンドイッチね、買って来なさいって言っといたから..今夜はいいのよ。」
「えっ、買ってこれるの? お爺ちゃんよくOKしたわね。 場所とかちゃんと教えた?」
明治生まれの父は釣りの餌くらいしか独りで買い物をした事も無いほど世間ズレしている箱入り爺さんなので、レジまで品物を選んで運ぶなんて想像しただけで可笑しい。 母に言わせると昼食後に床屋へ行くので、この際万一にそなえてサンドイッチを買いに寄らせる事にしたのだそうだ。
「鍛えようと思って。 だってそうでしょう? もしよ、私達二人供風邪でダウンしたりしても買い物も出来ないんじゃ困ると思ってね、相談したの。」とクスクス笑う顔が悪戯っ児のような母。 それはそうかも知れないが自立ったってそんなのはもっと早い時期だろうに、仕込むのは...さんざん御殿で甘やかしたくせにと内心呆れるが、黙って言う事聞いて出かけた御歳87歳の父の素直さの方が驚きだ。 近所では父を見た人さえ少ない程の奥の院で有名なのだ。
小一時間ほどして「ただいま」と戻って来た父の手にしっかりと白いビニ−ルの袋が握られていた。
「どう、ちゃんと買えたの?」
「あぁ、サンドイッチは、何処ですか?ときいたら、教えてくれたから」耳をいつもより赤くした父が頭を掻いた。
「何買ったの?」袋を覗いて「あれ!○○パンのじゃないの?」と私。
「だって病院の床屋だもん。 その側の売店よ」元気に母が口を挟む。
「色々あって解らないから、適当に、買った」ボソボソ言いおいて父は2階へ上がっていった。
「あの売店のパンの下にお弁当もあるからね〜、下の棚がお弁当だから。 分った?」母が大きい声でその背中に叫んだ。
「あぁ、」なま返事する父。
父の自立とは、道を渡った目と鼻の先にある病院の床屋の同じ階にある売店でパン買うことだったのか〜? そんなの自立の訓練なんかじゃないだろうに!
と、母が「あらやだ!ハムカツサンド、これ不味いのよね。 こっちはミックスだ。 あんたこの不味い方食べる?」
「いらないわよ。だって○○行かせたんじゃないの?」其の先が床屋だったはずだ。 すると母は
「あらもう大分前から病院の床屋よ。 近いし空いてて綺麗だし。 知らなかったの?」冷蔵庫のトビラを締めながら笑った。
「あの病院の中にYホテルのレストランも入っているし便利よ〜、歩いて5分。 利用しない手はないわよ」母は大発見のように言う。 我が家の老人にとってこれでも父には自立の道の一歩らしいのだ。 な〜んだ、あの殿が変だと思った。
「病気でもうつったらどうするの?」
「だって階が違うし離れているから平気よ」その言葉に私はとても寝坊などしてられないわい、と考えた日だった。


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