夏の牡蠣

1988年夏、私は病気になった息子を見舞いがてらパリにいた。 3回めのこの街は懐かしく何時来てもずっと昔から住んでいるように気持ちが安らぐのだ。 できる事ならこのまま住み付きたい街・パリ。 最初は病院のあるヌイィの大きいホテルに泊まり、そこからだと歩いて見舞いに行けた。

息子は一年前から留学していたのだが、その夏友人達とヴァカンスへ出かけたベルリンの帰り路で肺気胸になりそのままシテ島の病院へ担ぎこまれたのだ。 ベルリンの壁の壊されるちょうど前の年のことである。 片肺に小さな穴が開き呼吸が困難になる痩せた青年によくある病気だ。 悪友2人と息子の運転するミニクーパーでアウトバーンを走り野宿する強行に体力がついて行かなかったのだろう。 彼は17才の大学入試の頃にも一度その病に罹った事がある。 ミオパチーに無理は禁物なのかもしれない。 
電話で知らされた時は腰を抜かすほど驚いた。 国際電話のむこうで本人から直接報告を受けているのだから命に別状があるわけは無いのに。 慌てる母親に
「心配しないで.それより14日以上の入院には保険が降りて介護も認められるよ!旅費も只だし.遊びに来たら?」と呑気な声を出している。
「もちろん行く行く」と叫んで4日後にはエールフランス機の中に居た私である。 留学に際して保険をかけておいたのだが(留学ビザ取得には保険加入が義務)万一のためにとかけたその額が、保険会社に言わせると割合多めだったようで出発する前に念入りに調べられたのには閉口した。 確かに2週間以上の入院手術には2名までの介護が認められ往復の飛行機代と宿泊費が出る決まりとなっていた。
「いいですか.但し交通費と宿泊費だけですよ!認められるのは。食費は入っていませんよ!」
出発する直前まで何度も何度も同じ言葉を保険調査員は繰り返していたっけ。 私自身にもハンデがあるので助手と2人で出発することにした。

始めに入院したシテ島の病院より手術設備が良いということでパリ近郊はヌイィのアルトマン・クリニークに移され、私が着いた時には無事手術も終わっていた。
こぢんまりした落ち着いた病院の個室が白い壁紙ではなく、花柄だったのが新鮮だった。 息子の部屋に辿りつくまえに部屋番号を間違えて見知らぬムッシューのドアを開けてしまった私は老人を見つけ「パルドン」と慌てて戸を閉めてから笑いを堪えるのに苦労した..何故って突然珍入してきた東洋人の魔女?にあんぐりと口を開けて身動き出来ない老人の驚愕の顔がサイコ映画みたいだったからだ。 ごめんなさい24と14を間違えたコンサルジュがわるいのよムッシユー!血圧を上げないでね..と心のなかで詫びつつ今度は慎重に返事を待ってドアを開けての御対面。 病人の前でもひとしきり笑って御報告。 相変わらずそそっかしい母親に力なく笑う息子。 居合わせたパリでの友人達もあまりに明るい御対面にむしろホッとしたように賑やかさを取り戻していた。 責任という緊張からも開放された彼等とすぐ仲良くなれたのも失敗談のおかげかもしれない。
一段と痩せてはいたが息子は日本を立つ前とは見違えるように大人っぽい青年になっていた。 日本から佐川急便で送った白い薔薇と霞み草の花束が捨てられずに窓辺で乾いていたのが印象的だった。
「ぱとらが来るまで捨てちゃ悪いと思ってさ..まったく、無駄なことして」「大事な子だぞ!って病院の人に知ってもらいたかったの..」枯葉をむしって照れながら私は22年間驚かされっぱなしの息子の顔をもう一度良く覗き込んでみた。 殉教者のような青年が静かに微笑んでいるだけだった。

パリ看護滞在中も保険会社は日に何度も電話をかけて来て食費は自己負担である旨伝えるのを忘れなかった。 そのたびに
「私は一度聞けば理解できるくらいの脳みそは持ち合わせていますけど?」
とからかってみたりして楽しんだ。
「解りました。とだけ言っておいたらいかがですか?」助手に
嗜められたけど.あまりしつこいので辟易していたのも事実である。
暫くして退院を許され、ホテルを移ることにしてキッチン付きを探したがどれも高いところばかり。 保険会社が払うのであるからそれでもよいようなものだが毎日電話をかけてくる調査員が気の毒になり安いホテルを探すことにする。 モンパルナスのホテルへ移ったりした後に台所を使わせてくれるというポンヌフの側の安ホテルに最終的に落ち着いた。 病院からは医師がどのホテルにも出張して手術後のリハビリをしてくれるのに驚いた。 若い医学生のような私服の青年がオーデコロンの良い匂いをさせながら嫌な顔一つ見せず移動先のホテルまで往診にくるのだ。 最高なシステムだと思ったけど。 このためかパリの医療は高くて有名らしいが障害者や外国人には便利だと思ったものだ。
「ドクターの香水何か聞いて?」あいかわらずな私を無視する息子。 それは流行りはじめたエゴィストの香りだった。 いかにもパリッ子らしい粋なドクターだった。
留学したとたんいちだんと金銭感覚が貧乏学生になった息子はバブリーな金マン日本人を嫌い外食も嫌がったのでホテルで良く料理して食べた。
台所といっても湯沸かしとコンロが1個あるだけ、最初の日は日本から持ってきた素麺を茹でる鍋も無い。 駄目かな〜と思っていると助手のN君がワインクーラーを探し出して来てそれに湯を入れて素麺を茹でることに成功したのだ。 笊は日本から持参した。 薬味も汁も持参である。 学生のノリで友人達も交えホテルの地下の台所で素麺の退院パーティがはじまったから驚いたマダムが覗くので、お招きして一緒に素麺を味わっていただいたが不味かったらしい。 茗荷まで持参しての日本の味に息子は感動してたけどマダムはよっぽど貧乏なんだ〜と思ったらしい。 あれこれおかず屋やデリバリーの店を教えてくれて気の毒そうにしていたのが変にスリルでおかしかった。 おかげで一般市民の良く行くテリーヌ屋さんやパン屋さんシャリュキュトレールという惣菜屋さんで買い物が出来て一番楽しめた旅行であった。
生まれてずうっとパリに住む日本語のあまりよくできない日本人Taroから電気釜を借りて御飯を炊くのだが、そのたびにホテルのヒューズが飛ぶので申し訳ないやらおかしいやらで焦ったけれど、すっかり諦めたホテルのディレクトールは黙って何も言わずに直していた。 本当に学生並みの扱いだったがチェックアウトのときにお礼の意味もこめてドライフラワーの素晴らしい花束を置いてきた。
「こんな高いものを?」と不思議がられたから筋金入りの貧乏旅行者に思われていたにちがいない。 でも何回も言うとおり一番楽しめたのだ。
映画もよく行った。 ギャングの出入りしそうなバーへ間違って入った時のマティニーはNYでは絶対飲めない恐ろしい代物だったり。 動いた方が良いよ!というドクターの言葉を鵜のみにして病み上がりの息子を連れ廻して彼の思いでの場所へも足を運んでみた。 このまま時間が止まれば良いのにと思いながら..
ピカソやキャパ、パパ・へミングウェイや旧くはロートレック等が常連だったカフェ,ドームで食事が出来たのも倹約のおかげだった。 ムスカデの白で乾杯してフォアグラのソテーも食べた。 看病というより観光もやっぱりしっかりやっていた。 とうとう別れる日が迫り、最後の晩餐は魚介類を!と外にテーブルをならべているサントノーレの大きいレストランに行くことに。 残してくる息子が何かと世話になるだろうからと同じ留学中の彼の同級生を招待することに決めて皆で外へ繰り出た。
アコーデオンが鳴りジャグラーが出て広場が一体となるパリの夜は本当に陶然とした光りに包まれてある種桃源郷と化すのだ。 遊ぶ街パリ!若くして此の街に魅せられた者は何時か必ず舞い戻って来るという伝説の街。 一旅行者だった息子が戻らなかった理由が解るような気がした夜だった。
料理を選ぶだんになって私と同級生の少女は急に不安を覚え囁きあった。
「ネッ、今7月でしょう?夏の牡蠣は危なく無い?」
「牡蠣が食べられるのは"R"の付く月っていいますよね〜、危ないですかね」
「止めますか?」魚介類屋のテーブルで交わす会話では無い。 あたりを見回すと皆平然と金属の大皿に山盛りの牡蠣や海老、貝をレモンと塩でパクついている。
突然病人の看護に来ていることに目覚めた私はここで腹痛まで起こさせるわけに行かないとメニューから目をあげるとギャルソンに「よく火の入ったグラチネ!野菜のパテそれにビフテキ」と告げたのだ。 料理を待っている間物乞いやジャグラーも寄ってくる。 大きな犬も通るそんな中、すぐ右隣の席に白髪の東洋系の紳士と息子らしい青年が座った。 躊躇せず銀盆に盛られた魚介類を頼んでいる。 パーフェクトな英語だ。
「日本人じゃないね」私達はコッソリ囁き合った。「生牡蠣頼んでたわね」すぐ隣でお互いが値踏みをしあっている滑稽な状況である。
また犬が通った。 其の時「大きい犬ですね」隣りの紳士はハッキリした日本語で話しかけてきたのだ。
「えっ日本の方?」
「アメリカに居る韓国人です」笑いながら言葉を続け会話が弾んだ。
「日本はお金持ちの国に成って良かったですね。 僕は昔韓国で日本の教育を受けましたよ。 それはとても良い教育でした。 さくらさくら〜も歌えます」非礼を詫びてお互いの自己紹介をすることになったが左隣のアメリカ人家族も何やらこちらに加わりたげな視線を投げてくる。 袖すりあうも多少の縁というところか。 ほどなく料理がそれぞれのテーブルに運ばれてきた。
. 両隣りの生の魚介類があんなに旨そうで私達のテーブルがあんなに野暮だったことは無い。 後悔がムラムラしてきた食いしん坊の私は大急ぎでギャルソンを呼ぶと生の海老だけ追加したのはいうまでもない。 第一さっき日本はお金持ちに成って良かった!と言われたばかりではないか。 安食堂のメニューと同じ我々のテーブルではイササカ寂しい。 と、その時息子が何やら叫んだ!
食事を楽しんでいた回りの人間は皆ギョッとして道路側に背を向けて座っている彼に注目すると、さっきからレストランの客に悪態をついていた一人の老女が何か叫びながら息子の髪の毛をしきりに引っ張っているのだ。 物乞いである。 松葉杖を側に置いている一番おとなしそうな彼に狙いを付けたのであろうか。 「Putain ! Je t'en merde, salope ! Va t'en..~%$#¥&*@☆!!」息子がフランス語で厳しく怒鳴ると老女は掴んでいた手を離し駆け付けたギャルソンにせかされて離れていった。 あまりの迫力ある啖呵に私は驚いて目の前の息子をマジマジと見つめた。 彼は大声を出した事を隣の韓国人に詫び、静かに料理を食べていた。 まるで何ごとも無かったように。
「さっき私もやられたの」とアメリカ人が立ち上がって握手を求めて来たり写真を撮ってくれたりした。
ギャルソンの態度もあきらかに変わり飛んでくるようになった。 いくら物乞いが髪の毛を引っ張ったとはいえ相手が老女だったのが気になった私はいくらかお金をやりたかったが隣の紳士も反対したのでそのことは忘れてその後の食事を両隣りの異邦人と共に楽しんだ。 アドレスを交換して晩餐を終わりホテルへ帰る路すがら「さっきなんて怒鳴ったの?」と聞くと「糞くらえババァ!失せやがれっ(以下略)て言ったのさ」
私はあきれた。 ニの句がつげなかった。 「これもフランス人悪友の悪影響」ケロっとして答える息子に病後の身を独りフランスに残してゆく昨日までの不安は消し飛んだ。 この不良め。


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