一番の上

今思いだしてもそこは不思議なサロンだった。 あらゆるジャンルの文化人に混じり私のような駆け出しのスタイリストが有名無名も関係なく集い、自由に交流できる日本で唯一の場所だったからだ。
渋谷の東急本店に面した中華料理店『一番』の最上階にあったサロンは、だから「一番の上」と呼ばれていた。 様々な分野で活躍している文化人が政治に関係なく交流でき、忌憚なく意見交換ができる場所としてある雑誌編集長の音頭とりでうまれた社交の部屋なのである。 ホストは当時社会党の政務局長だったN氏。  50帖は優に超える広いスペースを『一番』の社長が無料提供してくれていたことで成り立つN氏個人の社交場だった。
自分達のボトルを置いて、料理が欲しい人は下の『一番』から自由に出前を取れるシステムで、常時お手伝いしてくれるN氏の秘書や事務の女性が4人ほどいて、氷や水、グラスの手配をしてくれていた。 今活躍している人の中に『一番』で交流をあたためた政治家や評論家、編集者、作家も多いはずである。 朝10時くらいから夜11時頃まで開放されていたこの部屋のつくりはロビー風で、大きな皮の黒いソファーをあちこち置いて一度に4〜5人のグループが3組くらい重なっても他人の話が気にならない空間が植木や本棚で上手に構成されていた。
学生時代の友人がN氏の秘書をしていた縁でこの空間に自由に出入りできた私にとってラッキーな気がしていたのは、お金がまったくかからず上等なサロンに出入りする大人に会え、マナーを見ることができたからだ。
政治家や評論家・作家を生身でそうそう見聞きできるものではない。 百聞は一見にしかずだ。 政治にはまったく興味はなかったが人間を観察するにはもってこいの場所であったので、仕事の帰りなどよく立ち寄って邪魔にならないように手伝いながら、会話の端に加えて頂いたりして見聞を広めたものだった。 奥に社長室があり大事な話はその部屋で行われるらしく、広間では自由な社交が繰り広げられていて、碁を打つ人もいたり、別のジャンルの人達が途中で合流したり、私のように休憩所としてちゃっかり利用する者もいたり、和気あいあいとした空間であった。 台所の内実はどうなっていたのかまるで知らなかったが、韓国人の社長が政務局長のスポンサーであるのは容易に想像がついた。 仕事上の利害が一致していたのであろう、政治献金もつきものだった時代である。
なんの疑いもなく便利な空間を利用していた人々が多かった。
時折遭遇する社長さんはニコニコした温和な人で、けっして社交に加わることはなかったが悠然とした態度は信頼できた記憶がある。 学校の校長先生のような人であった。
N氏は苦労して政治家になった人だが繊細でむしろ文人に近い趣味の人だった。 驚く程交友関係が多岐にわたっており多彩な顔ぶれに何時も驚かされた。 パーティが開かれる時は落語家やたいこ持ちも呼ばれ玄人の芸人の洒脱さに舌を捲いたっけ。 普通ではけして会えない種類の人たちである。 楽しかった。
詩人も呼ばれた。 映画監督も女優さんも、指揮者も、鹿鳴館のサロンが現代によみがえった風であるが嬉しいのは全員華美でなく普通であったことだ。 迷惑をかけないという規約があり、会費は払っていたように思うが私は一番若輩だったのでお目溢しいただいたか、たんに私がズーズしかったのか払った記憶はない。
友人はそこで女主人の役割をはたす才女で秘書としての能力もさることながら、座持ちのよさは天下逸品、ふらりと独りでみえた会員にも如才なく安心感を与えるので人気があった。 事あるごとに世話になっていた頼もしい友人である。 彼女ものびのびと働いていた。
 京都旅行のときなどN氏の人脈で予約を取れたり、往けるはずも無い名店に予約していただいたり面倒かけっぱなしだったが嫌なお顔をみた記憶がない不思議な方だった。 つまり政治家という印象は全くなかったのである。
良く御馳走になったがN氏自身は肝臓がわるいのでお酒も嗜むていどで乱れたり酔ったりした姿をみたこともない清廉の人であった。 芝居や歌舞伎、フラメンコ等の公演もマメに鑑賞していらしたので博識な親戚の伯父さん!としか感じなくなっていた。 大概の事はこのサロンで学んだといっても過言はなかったほど刺激的な場であった。

そんなサロンが突然閉じられた。 韓国人の社長さんが消えたのだ、忽然と! 家族もなにも事情がわからないままに。 もちろんN氏も皆目検討が付かなかったらしい、何ヶ月かは誰にも知らされないまま過ぎていったが、落ち着かない雰囲気だけが伝わってきていた。 ずーっと後になって知ったことだが、当時日本滞在中の金大中氏も消えたのである。 拉致事件として有名になったあの事件である。 金氏が一番の上で石橋書記長と会合した翌日金大中氏がホテルから拉致されたのだという。
一番の上は政治的るつぼに知らない間に利用されていたのだろうか?
沢山の文化人が出入りするところは国際的政治陰謀の隠れ蓑の場として格好だったのであろうか?、N氏はまったく知らずに場所を提供されていただけにショックは隠せなかったようだ。 その後麹町の小さな事務所に移ってからは、実務からも手を退いて訪れる人もめっきり減っていった。

あいかわらず相談事があると友人を尋ねてゆく未熟な私に言葉少なにだが明確に答えてくれる私学先生であるのにかわりはなかった。
息子の交通事故について弁護士を紹介してくださり励ましてもいただいた。 もっとも印象に残っている言葉は事故の保証金でモメている旨報告しながらグチる私に一言、
「君は息子さんの為に金を取るのかね、それとも徳を取るのか、どちらがいいと考えるのか?」であった。
雷にうたれるとはこの事だった、それから2度とお金について口にださなくなった私は運を天にまかせての子育てができたのである。 大金を得ていたならば堕落した人生を送ったかも知れない。 その時の社会党委員長は脚のわるい飛鳥田一雄氏であったが偶然を装い引き合わせてくださったこともあった。 意気地なく落ち込む私に飛鳥田氏は御自分の母親によって今日ある話をさりげなく聴かせることで奮い立たせるのが狙いであったようだ。
そのとき飛鳥田委員長はN氏に向かって「君は政治をやる人間としては繊細すぎる、それがおおいに弱点だ!」とも話されていたのを思いだす。 私の印象では飛鳥田氏もしかりである。
お二人とも平成を見る前に他界されたが、その後社会党はみるみる精彩を欠いていった、繊細とゆうことも政治力にとって本当は必要だったのかもしれない。
サロンは閉められ二度と開かれる事は無かったが、あれから30年、当時は政治犯だった金氏が大統領になり若い政治記者だった田原総一郎氏がTV界の重鎮となりドスをきかせている今、あの一番の上は一体何だったのか今だに不思議でしょうがない。


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