2010/2/16 火曜日

蔦の家

カテゴリー: エッセイ, 日々雑感, 時代 — patra @ 2:49:24

112-1206_IMG112-1209_IMG112-1211_IMG112-1212_IMGしっかりと記憶に留めておこう。この地に引っ越ししてきたのは昭和26年秋、私は小学4年生だった。その前年は日本橋の親戚のビルに間借りしてました。親戚と母との折り合いが悪くなり出て行く事になった父は、私達を連れて神保町の映画館でマルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」を見てから、お茶の水駅の聖橋の階段に腰掛けてお握りを食べました。映画はさっぱり解らなかったけど、冷たい石の階段に座って食べるお弁当が喉を通り難く、父母の窮地がそれとなく解り、飛んで跳ねる無邪気な姉以外、誰も話すものはいませんでした。
何本もの電車が目の前を通過しても、きっと両親は戻るあてが無かったのだろう・・・夕闇が迫るまで階段に座っていました。

その直ぐ後にこのお茶の水に引っ越せたのは母の「女学生の頃から、ここお茶の水に住みたかったのよ」の一言だった。料亭の設計料を前借り出来た父は母の言葉に奮起してササヤカな土地を買い、戦後の長い居候生活を脱却できたのだから妻の一言には凄い力があるものだ。
当初の掘ったて小屋から・・・平屋を2階建てブロック建築に立て直したのが昭和36年で私は18才。38年結婚し家を出ました。3階を姉が建増ししたのは43年で、私達夫婦は世田谷経堂に未だ住んで居り息子は3才になってました。
妙ちきりんな外観は、オリンピック道路に買収されると噂があった頃なので本建築も出来ず、コンクリート打ちっぱなしも未だ一般的では無い時代でした。
何度も建増しした結果です。どうみても外からは3軒別々の家に見える住居を、蔦を写したくて北側の会社駐車場から記録しておいたのが上の写真です。平成2000年の事でした。蔦の占領した壁の一部を残した侭の塗り直しが、更におかしな様相でお化け屋敷状態です。息子もお嫁さんも蔦が好きなので撤去に孟反対されたからなのです(笑)。

50年近くも実によく保ったものである、と感心する陋屋ですが雨漏りも強くなってきました。
2008年に遂にこの家を覆い尽くす蔦を全部撤去し塗り直したのは、蔦好きとはいえ断腸の思いでしたが家が傷むので潮時でした。外壁を濃い緑色で塗り替え、窓サッシを直せば、一応質素ながら私好みで修復は完成する予定でした。
ところが・・・
塗装の直後に、なぜか2度目の骨折をしてしまい、この家に新たな難題が忍び寄っている事を知らされました。いつの間にか裏の会社に南側の駐車場までが買収されていたのです。北と東と南、我が家の三方をグルリと9階建てのビルで囲まれる建築計画が、秘密裏に進行していたのでした。鉄骨とブロック石のどこか間抜けな、でも堅牢な造りの、「天井桟敷の人々」を観てから父の脳裏に灯った希望の家は、風と光が全く射さない事になる。一大事です。
まだ十分に保つのに・・・
外からも完全に遮断され、もう完全にビルに埋没してしまう運命です。外から見えないのは、セキュリティー的にプラスで一向に構わないが、南側に高い駐車場タワーが建てばテラスや3階に、二度とお日様が入らない。窓を開けてもテラスに出ても高いビルの壁が鼻の先きにそびえるわけだ。第一、人の住む環境とは申せまい。車の出入りも激しくなり老母の通院の妨げにもなる。私の2度の骨折も、太陽に当たらない暮らしのせいで骨がガラスのように脆くなった為とお医者様にも指摘されているのに、更に陽が遮られる南の駐車タワー建設計画です。驚かずにいられません。

むかし、近隣の人達が生まれ育った土地を簡単に手放し離れて行く姿を見て、なぜだろう?と不思議で仕方がなかったが、まさか我が身にそんな事態が起きようとは・・・想像もしていなかった。しかもこちら側には何一つ出て行く理由が無いにも関わらずだ。

「あなたも此処に9階ビルを建てればいい」相談すると、弁護士は、開口一番にそう言放つ。が、商業地区だが9階は建てられはしないのだ。自己資金がないのは勿論だが、家の前の道路は3m強と幅が狭いので、斜光制限等でせいぜい5階止まり、採算の取れるビルにはならないからだ。しかし裏のビルとつなげれば話は別で土地価値は一挙に上がるが・・・裏(彼等からみれば我が家が裏なのだが)は自社ビルなのでマンションとは違い等価交換交渉もできない。さてどうしたものか?と連日策を練る間もどんどん工事は進み家は轟音に包まれ激しく揺れる。黙っているわけにはいかず抗議しながら、冷静に状況分析を重ね熟考し様々な交渉案を考えては呻吟する日々は老母には勿論、私にも実にキツい体験でした。

ネットで知識の有った、太陽集光器を会社側の屋上に設置してもらう案などを10箇条ほどの要求を突きつけました所、全て飲むとの回答があった。だが、最早1階〜3階での暮らしは車椅子の私には無理。結局は買い取りたいとの申し出でが会社側から出たのが去年の3月下旬。条件に合う代替えの土地探しが始まった。6月にやっと提示された土地は、旧岩崎邸の側、日陰だが70坪、だが広過ぎて固定資産税が3倍になってしまう等、とても隠居の身で賄いきれる税金では無いなど難問だらけ。

3世代が別出入り口、別台所という我が家の11部屋の代わりになる家など何億出しても何処にもないのです。しかも母の病院や先生、慣れた訪問看護士のサポートエリアでは皆無に等しい・・・、とても代替えとなる物件はみつかりません。

事前に交渉が一切無かったのですから我が家の護られるべき権利は当然はっきりと主張せねばなりません。人生の一大事を寝耳に水では対処のしようがないのでした。更に、知らぬとは恐ろしや、外壁を塗り、散々、家の修理にお金もかけてしまった私は進むも引くも出来ず、進退窮まるとはこんな状態か!と我が身の不運をあきれるばかり、工事の音で難聴には成るし、腰痛にはなると散々でした。

売却にも難問が一杯です。住み替えの権利は持ち主の私だけで・・・息子夫婦や母の為にも物件を分けると贈与税という弊害が発生するという問題に直面しました。巨大マンションは総てにお金がかかります。家を売って貧乏になる、という現実に晒されたのです。マンションは駐車場代、管理費,修繕積み立て金と、経費が掛かるうえ、好きな間取りなど一つもありません。一番の問題はどのマンションも障害者仕様は建前だけで全くといって考慮されている物件など無いに等しいのが現実でした。

一般的なバリアーフリーくらいでは車椅子で自立して家事全般をこなす生活は出来ないのです。

売らずにこのまま住み続けよう・・と何度も何度も考えたのですが、私の骨折による体力への不安に老母の胃がん宣告が5月にありました。最晩年を看取るのは私一人なので車椅子での介護生活には、3階建て住居では不可能です。老人介護と看とりを充分に年令のいったしかも障害の娘が看ない事には成り立たない経済と、明るく振る舞っていても他人とは絶対に馴染まない母・・・まいったな〜が正直な感想でした。

骨折直後、息子から2度も続けて骨折するには何か意味があるよ、と問われても過度な潔癖性ではあるが罰あたりは覚えが無い・・・。そして気づいた事は、もしや亡き父の計らいかもしれない?という事です。多分2度骨折しなければ永遠に此処から離れること等ありえない私です。父は生前、「売るならば裏の会社に売りなさい」と予々言っていたのを思い出す。その会社が売って欲しいと言ってきたのだから。どんなに好きな家でも、陽が射さず段差だらけで外に出るにも困難な状態ならば、今、決心するしかないだろう・・・と悩みぬいた結論です。
一番に考える事は母を無事に看取るための私の利便性ですから。外にでられないなら四季を窓の外に感じながら暮らす選択しかない残されていない・・・

要らぬ心配をさせまいと、ご飯を作りながら悩む日々でした。

太陽集光器の会社社長さんが「いくらでも協力します。あんなレトロな家はもう都会では滅多に見られません。壊すなんて勿体なさ過ぎです」とわざわざ電話を下さいました。もちろん、一番辛いのは私達です。現在の住いの11部屋をたった3部屋しか使ってない現状です。「壊すなんてとんでも無い!」と、心の叫びに身体が叫び返します「また転んで人生を終るつもりかい?迷ったら負け」
・・・なんという試練なのでしょうか・・・しかも空亡の時期の売却決断なんか、ダメに決まってるし許されるはずもないのにですよ。この先の混沌と政治不信と不景気に向かう日本を、除公升だって孔子さまだって読み取れるものではありませんっ。第一あんなに反対した高層ビルへの移転、何かの歯車が急回転しているようで落ち着かないったらない。

HPを立ち上げた11年前、サイトやブログに、部屋の写真を熱心に映しては載せていた事もいつか消えてしまう運命の予感が私にあったからですが・・・哀しくも切ない蔦の家。愛して止まない家だったが、裏のビルを解体し掘り返し、大工事が終った現在も、壊れもせずに、凛として未だ堅牢、我々を護っています。

「この家には癒しがありますね」と訪問看護師さんがつぶやきます。
出来るならば移りたくは無いが動け無い私の為に、あらゆる労を執って下さるのが意外にも当の会社の担当者です。不思議な事に20年前の昔、切り倒されようとした桜の延命をお願いし、聞き届けてくださった、其の会社でもあるのです。

今度の工事が始まる時に「皮肉なものですね、桜のお礼に私はいつも貴社の繁栄を祈っていたのに・・・まさか家に災難が!」そうお伝えしました。

運命ならば潔く受け入れる!これが我が家の家訓でもあるのです。ご先祖様の発祥の地、浅草に近い、上野池之端へとこの秋、居を移します。せっかく奇麗に塗った緑の家は道路からも、全く見えなくなってしまいました。せめてもの救いは壊すのを見ずに済むことでしょうか。
寂しく侘しい思いで一杯ですが床下まで伸びた大木の根がピシッピシッと音させ、鳴るこの頃です。この家の潮時の音でしょうか。

2009/8/30 日曜日

2回目の顛末

カテゴリー: エッセイ, 骨折日記 — patra @ 7:35:12

退院1年目に思う・・・というエッセイを、去年夏に載せたわずか1ヶ月後に又も転んだ私は相当の罰当たりかなんかですね。
靴は不具合だったので使ってませんでしたが、つたい歩き、杖が使えるようになってました。用心のためにピックアップ歩行器を併用していたのです。

その日は凄く蒸し暑く、家に来て下さるへルパーさんは体格が良く汗かきなのでクーラーだけでは足らないだろうと自分の寝室のデロンギ乾燥機を付けてから戻る所で、僅かな引き戸のレール(5ミリ)に弱い足首が乗った瞬間によろけたのです。訪問看護士さんの目の前でした。後で聞いても何故よろけて尻餅をついたぐらいで骨折したのか解らないくらい静かにズルっと床にお尻をついたそうですが、なんせ狭い通路なので足に全体重がかかってしまうと、筋肉の障害(ミオパチー)がある私は自分を支えられないのでしょう。とっさに掴んだ植木鉢ごと倒れました。

前からお直ししないといけない廊下、去年とほぼ同じ場所ですから本当はいの一番に直すべきでしょうが母の環境を直すのが、私には先決だったのです。

運良く看護師さんの目の前で転んだので、すぐに整形の先生が順天堂に連絡をしてくださいましたが、ここが大問題です。当初は受け入れ可能だったのか、レントゲンを沢山写し診察室で見ながら、既往障害の話しなどし診断する内に部屋が5万しか空いていないとの事、まさか整形で日に5万もかけて3ヶ月入院したら破産ですから困る!と言いますと「じゃここでは看れませんので元の手術した先生に頼みなさい」とニべも無い。
おぉ、世間で噂のたらい回しの根源は部屋代も有りか?

去年、退院する時に「2度と転ばないでね、もう来てはダメ!!」と言われたばかりの逓信病院に行くのは面目無いし恥ずかしい。果たして受け入れてくださるか不安な私に順天堂の先生が連絡をしてくださる。「すぐ来なさいと言ってますよ、救急車呼びます」
「来ちゃダメって言われてたんですけど・・」「そんな事言ってませんでしたよ」と苦笑する先生。
「再起出来るかしら?」しょんぼり呟くと側で着替えを手伝ってくれていた順天堂の看護師さんが「あなた、しっかりしてるから大丈夫!」と声をかけてくれたので、すぐその気になるゲンキンな私。

救急搬送された日は若い知らない担当医でしたが「良く来ちゃダメと言われた病院へ又来ましたね!」と笑いながら止めをさされるし冷や汗で平謝りしました。

去年と違う6階へ運ばれる。この6階の担架風呂を借りていたので其の方が便利と思ったのですが早とちりでした。あの優しい7階の看護師さん達と違いなんか?言動に刺が在る感じ・・・ついて来てくれたケアマネジャーさんや看護師さんは婦長さんまで勤めたベテランなので首をかしげて、でも黙ってましたがどうも救急で運ばれる人間には邪険な対応の様な気がしますが受け入れて頂けただけでも感謝しないとですね。

入院した日は1晩中、雷が轟くように鳴っていました。真っ黒な窓に光る稲妻をみながら、いくら脳天気な私でもへこみました。万事窮すなり。
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2009/8/14 金曜日

笑いかたを忘れてた

カテゴリー: エッセイ, 日々雑感 — patra @ 2:09:09

隙間が出来ていた歯が奇麗になったので笑ってみたら、驚いたことに長い間微笑むだけで滅多に歯を見せないようにしてたせいで、なんか口の中心が曲がる・・・習慣とは恐ろしや。なんでも私は歯の圧力(噛み合わせる力)が異常に強いせいで歯並びが反っていたのだそうです。どうりで朝、起きてもドット疲れを感じるほど歯を食いしばっているらしい事に気がつきます。困った癖だ。上あごの天井に出来てきた白い硬い突起も骨の変形だそうな・・・ここ何年も口腔癌かも?と一人悩んでいたので歯医者さんにハッキリと違いますよ!とお聞きして大安堵しました。骨は圧力がかかるほど刺激され勝手に石灰化し育ってしまうのだそうで、ならば私の足の骨折部分も硬く育って欲しいのに、この所、骨が痛いのは何故じゃ?
部屋のヘルパ−さんが働き良いように付けている冷房が、両足に入れてる金具をダイレクトに冷やすせいらしい。夏でもサポーターをしたり長いズボンにしてくださいな、と半ズボン姿を整形の先生に叱られてたのにCM業界育ちのせいで永遠にラフな若造りから足が洗えません。ところがこれが危険だという事を発見。車椅子で家事をしてると生足の膝小僧に物が良く落ちる。ポタっとお鍋の湯気の雫まで落ちても熱い。俎板を膝に乗せて野菜を刻むとかしてヒョイとレンジに手を伸ばして火を消そうとすると膝からペテナイフが滑り落ちる!!とか。なので余程注意集中して家事を進めていると,必死に奥歯を噛み締めてまする。これじゃあごが発達するわけだ・・・そして微妙に歯並びが歪んできます。予防するには格闘家みたいなマウスピースを装着する事らしい。顎や口を大きく動かして運動する百面相が、とても楽になるからおもしろい。

                           

2009/4/12 日曜日

蚊と闘いながら思う

カテゴリー: エッセイ, 家族, 日々雑感 — patra @ 2:52:43

まったく退治できません。くやしいのはPCの画面に時々とまるんです。ふわっと。昨日から家の中に居ます。お客さんの体温につられて侵入してきました。このところ急に温度があがったせいでしょう。

諦めかけた今、あれ机の上に・・・・成敗しました。生涯を殺生なしで生きて行くのはむずかしい。よく見たらこれは生まれたて子供の蚊じゃないですか。 とほ・・・人に止まることも出来ずにプワプワとうるさく飛んでいたんですね。あぁ無常なり。寝てる間に私の顔を刺した親蚊は何処へ?

話は変わって

母の妹さんで我々姉妹には叔母さまから再度電話があって病院を変えたり何か母のためにアクションを起こさないのか?不思議がられました。冷たいと思われるのでしょうが現実問題、日本一と言われた先生方の執刀でも院内感染、C型肝炎キャリアとなってしまったのは母の運です。目下痛みも熱もないのが不幸中の幸い。何度も先生方からは片足3回目の再手術は出来ないし運が悪ければ術中に命を落としかねない・・・とまで言われている我々です。徒に騒がずふだんどうり暮らしてゆくことこそ「思いやり」と考えるのですが、こうした姿勢は理解されにくいようです。

友人が腰椎の手術を内視鏡で受けるらしいのですが100%完治とは保証できないと先生から 言われた途端に非常に悩みはじめました。本人が納得できる良い先生は未だ見つかりません。色々の病院へ行ってみると内視鏡では無理とか神経ブロックを勧められるそうで情報が錯綜し迷うようです。どんな名人でも人間のする事であれば絶対ではない。母が大昔、受けた人工股関節手術は当時の最高の医師達で行われた筈です。東大本院が混んでいたために一刻も早く痛みを取ってあげようと言う先生の当時の好意で分院へ。運悪くその分院が院内汚染していたのを関係者すら知らなかったのです。

母の責任ではもちろん無いが今の状態が悪い方向に向かっていないという事だけでも有り難いと思わなければ医術に携わる人々は誰もいなくなるだろう。

救急搬送で辿りつき何の情報を持たない病院で直していただき2度と転んだらダメだよ!と言われたのにも拘らず2度目に運ばれた私を黙って受け入れて再び直してくださった先生達さえ内心は「絶対無理」と再入院当初は思ったそうです。その人の持つ 生命エネルギーに委ねる事も、有名医師を探しまわるより時には大事なのだと言ったら極論でしょうか?

母は何度も私に「このままで幸せ・・・何とも無いから今更知らない病院へは行きたくない。」と言います。

何とでもなる・・・と母も娘も心の奥底で自然になすが侭を受け入れようと覚悟だけはしているのです。黙っているからといって無関心な訳では決してない。

深く深く思いやると・・・慌てず騒がずふつうに暮らす・・・が一番なように思えるのだ。

疑いはじめるより受け入れる心、自分の運を自分で見極める強さを伴とした生き方を現代にも蘇らせたい。寿命があれば生きる。騒ぐ事ではない。

2009/3/18 水曜日

私の小さい桜の話

カテゴリー: エッセイ, 時代 — patra @ 2:25:59

息子たちの帰国で静になった我が家、用心のために夕方から全ての鍵をかけ門灯をつけてまわる。1階の階段下から2階の小窓を見上げると桜が私を覗くように咲いているのが見える。枝ぶりの見窄らしく成ってしまった延命の桜だ。「今年も誕生日前から咲いてくれてありがとう」そう声をかけ、そうだ今夜は佐藤良二のさくら道がドラマ でやる日だな!と思う。

冷凍庫の整理がてら早めに夕飯を済ませ裏の敷地に残してもらった桜のためにもドラマを見ました。バスの運転手の佐藤さんが桜街道を作りあげようと努力しているニュースを知った頃、私は息子の育児の真っ最中だった。木が大好きだった私はその頃の経堂の陋屋が木に囲まれているのが何より気に入り住んでいた。

実家だった、今現在は私の所有する此処は昭和26年から父が住んでいたのだが元は江戸時代から続く味噌問屋さんの地所だった所を安く購入したのだ。その地主さんの屋敷は重い瓦屋根に潰されそうな平屋で陰気な雰囲気だったのは鬱蒼とした大きな庭の木々のせいだった。

池もあり古井戸もありお稲荷さんの社も誰も手入れをしないせいで朽ちかけていた。時代についていけずに 没落していく様子が子供心にも強く印象に残る無惨な庭だった。どんな人が住んでいるのかもお隣なのに地主のお爺さんしか目に入らなかったが結構大人数の家族が住んでいたようだった。ある時から家に隣接したニワトリ小屋に裸電気を引き勉強部屋にする学生さんが現れて増々暗い様相を醸し始めていた庭だった。

木の好きな私はお嫁に行くまで隣の木々の雨に濡れて艶やかに蘇る様や木枯らしに丸はだかになる様を具に観察 しては木に語りかけ励まさずにはいられなかった。日がな木を眺めていたので夜中の火事も発見し2階の窓から大声で地主さんを起こしてあげたこともありました。幼少の頃からの癖だったのでしょう。大袈裟に言うと木の声が聞こえていたのかもしれない。

70年代後半になって出戻った私に隣の木々はなお鬱蒼と茂り我が家の屋根に触れんばかりに枝を伸ばしていました。既に地主さんも亡くなり終に土地は売られジャングルのような絡みあった陰気な庭が 取り壊される寸前に私は受話器を握り敷地の端っこの桜と銀杏,柿にローリエと泰山木の延命を裏の会社に直訴するため電話をしたのでした。

忍びなかった。木々が切られその土地の歴史が跡形もなく消え去るのを見過ごすなんて絶対に。ローリエ(月桂樹)は切られ泰山木は桜とともに残されました。嬉しかった。

それからです。早咲きの品種だったのでしょうか?3月のはじめには咲いてしまう桜。年に何回も見事な白い花を咲かせる泰山木。あれから30年、先日、泰山木がついに切られてしまいました。

日当りと栄養不足の桜は哀れなくらい弱っています。去年は私の誕生日には間にあいませんでした。今年は危機感からか・・・窓から覗く桜は色こそ褪せた白にちかい花を必死に咲かせてくれています。新社屋建設のために取り壊された敷地に取り残された桜と1軒だけの我が家。人間が植え育て人間が残酷に木々を切る。

ドラマの中で実生の種を桜が一杯落とすシーンに泣きました。なぜなら10年程前に裏の延命の桜,この実生の種をいっぱい降り注ぐように落としたことがあったのになぜか解らなかったからです。不出来な桜んぼ?と。無知でしたが私個人ではどうしようもないことと諦めていたのでした。企業がせめて木々を土地の歴史として残すくらいの度量が あれば・・・・虚飾の繁栄ではない真の受け継ぐべき繁栄につながりはしないか?さくら切ってはならない。

諦めなかったのが佐藤良二のさくら道、この地球上に彼のような人こそ必要だった。

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