2008/8/13 水曜日

赤塚不二夫とトンデモない仲間達!!3/8とか

Filed under: エッセイ, 人物, 時代 — patra @ 3:23:29

好きなブログの一つさとなおさんが書いてらっしゃる事は偶然にも私の仕事でよく知っている人々、例えばカメラマンの稲越功一氏が本番の撮影時にはお洒落なスーツ姿でビシっと決める・・・(昔は白いマフラーも下げ、いつも濃紺のスーツで決めてました)等と出てくることがあります。けれど20歳以上も年齢が離れている私は現役時代は勿論今もブログでしかさとなおさんを知らない。ただ微妙に生きて来た道での人の好み、嗜好が似てると思うときがあるのが一方的にうれしいのだが。ギョっとしたり、おっと思ったり。先日も赤塚不二夫さんの葬儀の際のタモリさんの弔辞、全文紹介して下さった上でその弔文は 白紙の巻き紙であったこと!「勧進帳よろしく諳んじてみせた、彼独特の密室芸だった」とお書きになっていた。これは聴いていた人なら誰もがオヤ?と思う一節をタモリ氏が口にするあたりから何か深い伏線がこの弔辞にはあるのだろう・・・という我々の、漠然とした疑問を一瞬にして氷解してくれるものでした。

赤塚さんは飲み会でタモリさんは仕事で、現役時代に、時代はズレてはいましたがお会いした私には、さとなおさんの日記によるタモリ氏の真剣勝負、正に目から鱗・・・何と粋な芸(ギャグ)で恩返ししたことか!と嬉しくなりました。赤塚さんは昔、多分ガロの総編集長をなさっていた頃で大多忙な筈でしたが、よく「話の特集」の若い編集者達と打ち合わせを兼ねて渋谷、新宿界隈で遊んでおられました。40代だったはずです。
ちょうど最初の奥様と別れた頃だったでしょうか。大漫画家なのに人懐っこくシャイでした。
ある日、夕方ふらりと一人で編集者達のたまり場「一番の上」にお見えになった赤塚さんは痣だらけです。驚いて伺うと「驚いちゃうよ、バーのママさんと喧嘩になったんだけどさ〜本気で殴ってくるんだ、それもハイヒール脱いでそれで殴るんだよ,卑怯だよね〜」と真剣にボヤイて破れたセータの傷をみせてくださった。お酒を浴びるほどお飲みになるらしい、しかも女性と取っ組み合いの喧嘩?やたらピストルを撃つ漫画のおまわりさんと重なり恐ろしく敬遠したい気分でしたが私の友人は大笑いしながら慰めていました。

赤塚さんが女性より男性とよくお飲みになるのは、その恐ろしい喧嘩がトラウマなのでしょうか?等とくだらないことまで思い出すわたしです。タヌキ御殿というヒゲもじゃに日本髪を結った奇妙奇天烈なゲイバーへお伴した時も編集者と一緒でした。スタイリストになり始めの私がこんな奇妙な世界が日本に存在するのか!と呆れたほど強烈なインパクトが45年前の新宿雑居ビルの中に・・・あれ以来ほとんどの事に驚かなくなった私の目にはゲテモノ初洗礼でしたね。ゲイといえば美少年、と思い込んでいた無邪気な私にいきなりフェリーニ風の悪趣味且つ太った女装(今では珍しくないGMさん、しつれい)が接客し商売として成り立っているのですから実に貴重な体験でした。
もちろん男どもにしか興味の無い彼ジョ等は同行の若き編集者を襲います。その度に未だ純情な人妻だった私は必死に彼ジョ等の猛攻から編集者を庇ってあげていた!というお粗末、赤塚さんはニコニコして嬉しそうに飲んでるだけ。

もう記憶が朧なのだが当時経堂に住んでいた私は、確か赤塚さん関連の誰かを、三上寛さんの住んでいた成城まで一緒に車で送った記憶もある。あるいは三上さん本人を?あの時代、誰が誰なんて深く追求せずに袖摺り合うも多少の縁とばかり何も頓着しなくとも無事、目的地へ行き着いていたものです。そんな赤塚さんのまわりに集まる芸人や友人たちの映像が、YouTube動画でも見られます。多分還暦祝いの企画か? 三日間旅館にカンヅメになった赤塚さんをかつての弟子達が一堂に集まり50ページの漫画制作の助手をする・・・というイベントです。

(息子の交通事故のとき、友人を介し名入りの色紙までいただいたのに、当時10歳の我が息子は手塚治虫氏の色紙ほど感激せず今や色紙も見あたりません。わたしも罰当たりだ・・・。人間にとって価値観などは脆く残酷なものなのだ、と赤塚さんが一番よく知っておられたのだろう。これでいいのだニャロメ・・・お見舞いには不似合いな色紙にちから無く笑ったものでした。)

この何本もある動画をこのところか隈無く見つづけました。赤塚さんは出会った頃のまま、ずっとペースを落とす事もなく毎日飲みつづけ遊んで仕事しての生き方を実に50年も続けていたことになる。画面を見ていたらタモリさんが赤塚さんの一つの作品ならば「これでいいのだ」に辿り着くまでの赤塚さんの人脈のすごさが胸にせまってきます。赤塚さんに声をかけられた頃の九十九一の良さや三上寛の巧みさ・・・沢山のソウソウたる弟子たちや芸人達。

赤塚不二夫さんのような、ただただギャグ芸人を見続けてくれる存在が無い今の日本の芸人はどうやって、紙一重の際どい部分、自己研鑽をするのだろうか?気のどくな時代になったもんだ・・・と思った。

目と鼻の先の病院に7年も入退院を繰り返されていらしたとは、残念です。 赤塚さんの想い出で一番好きなことは先妻さんを「美人なんだよ」黒柳徹子さんに似てる、と教えてくださった事。そして2度目の奥様とお二人が仲良しである〜と漏れ聞いて流石だな〜と感心した事。このことは赤塚さんの懐の深さをあらわしています。今ごろ2年前に亡くなられた奥様と赤塚さんの死の二日前に亡くなられた前の奥さまに出迎えられて”両手に華なのだ”と照れ笑いをしながら涅槃に向かわれたことでしょう。冥福を心よりおいのりします。

2007/10/15 月曜日

医者の資質

Filed under: エッセイ, 骨折日記 — patra @ 4:17:22

骨折日記が途中で尻切れトンボになってしまったのは,母の部屋と木戸通路をリホームしていたせいで時間がなかったのですが、もうさしてお伝えする事件が無いのでした。
当時の日記には両足の骨が完全についたよ!と先生に言われたのは6月4日、部長回診で「骨がついたのでリハビリを,限界までやるように」と言われた!とある。

この時、部長先生は「もう駄目かと思ったら嬉しい誤算だったね、もし付かなかったらもう一度骨移植を考えなくちゃならなかったんだよ〜」と元気な声で嬉しそうにお話くださる。もちろん私もうれしいので早速息子達に報告する。

ピックアップ歩行器で歩く練習をしすぎてアキレス腱炎になってしまったのは、この直後だが、先生からは「痛み止めを使ってでも頑張ってください」と言われて焦った。

父の妹、叔母が死んだのも丁度その頃、6月10日、これで父の兄妹10人は全員この世から居なくなってしまったのか。私の姉が実に良く面倒をみてあげていた。娘を持たない叔母は何かと姉を頼りにしていたが大往生と聞きホっとする。
入院中,沢山の知り合いの不幸が,重なったが成す術なし、ひたすら冥福を祈るばかりだ。

6/11日
待っていた靴の仮合わせに看護師さんが4、5人見学に来て驚いたが、皆の期待も虚しく足先が,逆ハの字に外側を向いてしまいガ二股になってしまう。例によって外側が低く内側が高い、どうしてこうなるの?という代物だった。踵を計ってみても,左右に狂いがあった。暗澹となる。踵を貼り直していないまま、ただ細身に削ってあるだけなので・・もちろんやり直しをお願いした。

私の失望を知ってか看護師さんたちは何も言わず側から離れていきました。

6/19日渋谷のスパで爆発事故発生・・・はじめはテロか?と驚いた。恐いわね〜と部屋の患者さん達とTVに釘づけ、それにしても入院以来、事故が多かったように思う。春には神楽坂で火事があり、きな臭い風がリハビリ室まで漂ってきたりした事があったり・・・

6/20日ノリが大きい花束を持って見舞いにきてくれたが,母が心不全だと教えてくれる。一人留守番が限界なのだろうと急に不安になる。

6/24アビリティーズの人が家に来て車椅子が入るか調べに来たそうだが、車椅子など使うつもりが全く無いので焦る。家の構造も広さも絶対に無理だしね。建築家と一緒に来て散々首をヒネって帰ったと母が報告するのを聞き不快になる。
歩くつもりでいる私です。歩行器でリハビリ室を3周するが、肩に力が入りすぎ頭が痛くなる。

看護学校の生徒さんが又ついてくれる事になり、若くて熱心ゆえ、私が歩く練習時にサンダルが脱げないように一々包帯を巻いているのを視て、色々と工夫してゴムやサポーターを利用し簡単着脱を考えてくれました。

残念ながら,車椅子に乗って足を上げ自分で取り付けるには包帯が一番易しいので、これを超えるアイディアはさいごまで出てこなかったけど、その研究してくれる気持ちが凄くうれしかった。
6/27日

足がダルいと伝えたら暖めたタオルでマッサージをしてくれたのも生徒さん。若い希望に燃える看護師の卵さんがず〜っと希望に燃える職場であるには大変な仕事である。

7/2日
部長先生が「靴が出来たら家に帰れるかい?」と聞かれたので「大丈夫です」、と答える。自分の中では既に退院を決めているのだから・・・

部長先生曰く政府の補助金が出る範囲でしか靴を作れないので,私の理想のようには出来ない、あれが限界かな?という事をしきりに口になさる。
「君の言う靴はとんでもない値段になっちゃうよ」

でもそれは業者さんと、初めに話が済んでいる事だった。もし予算オーバーしても全額前払いなので靴屋さんには何も迷惑はかからないし,良い靴が出来さえしたら自費でも構わないと思っているのだから・・・。
不具合なのは単に職人と中間に立つ装具屋さんの無能だと思う、と言ったら部長先生,本気で怒っていました。「優秀な人なんだよ、ここでは」
「じゃ靴は諦めましょう、もう外には出るつもりもないし,病院には迷惑をおかけしません」と私。

4日,レントゲン室に降りた時,今までは抱えて台に上げていただいているので
自分で立って乗ってみたら「オ〜動けるようになったんだねー」と技師さん達が喜んでくださった。実に5ヶ月もかかったわけだ。

この頃,手がしびれるので担当医に話すと首のレントゲンを指示してくださる。ところが「首の神経は太いし軟骨も減っていないので大丈夫!」との事。
でも1番心配なのは脳・・リハビリ室に多くの脳梗塞の患者さんが来て機能回復の運動をしているけれど手足に麻痺が残るせいで,皆さん大変なのです。

万一、脳の障害まで起きたらそれこそ再起不能なので脳のMRIを退院前に受けておきたいとお願いすると脳外科の部長先生で副院長先生の予約をとってくださった。
「名医をお願い!」と私が悪ふざけしたら本気になってくださったのだが、歯科も皮膚科も全部,部長先生クラスを紹介していただけたのは整形の主治医が部長先生だったお陰だと思うとラッキーでした。

わざわざベッドまで私の様子を聞きに来てくださった脳外科の副院長先生を一目みて誰かに似てるな〜と思いながらお話してるうちに「アッ、野口英世博士に似てる」嬉しくなる永遠のミーハーぶり・・・

退院前にMRIを撮りましょう!と優しい笑顔でお答えになる先生はやはりお名前も野口先生・・お髭までそっくり。
やさしさは患者をとても安心させてくれる,医者の重要な資質だとおもいました。

整形の部長先生はカリスマ性があり周囲を明るくする力があります。きっともう手術はなさらないのでしょうが,先生が回診に見えると患者は皆元気を貰えるような気持ちになり嬉しそうに笑います。
私がつけたあだ名はデコイ先生・・・、(水辺でカモを引き寄せるデコイ・・・)実力のある先生だと思います。患者を引きつける魅力があるのですから。患者を鴨に見立てるのもナンですが病院経営は接客商売とも言えます。

ただ実際に手術するのは若い医者ですから若い医者はひたすら技術を実戦で磨くのが使命でしょう。
そう考えると私の担当医だって一生懸命,実戦しているのに違いなく、忙しくとも真面目に懸命に・・

ある日,私は担当医に

「先生は間違っています!なぜ先生は何時も、何も変わりありませんね!!とエクスクラメーション・マークでお尋ねになるんですか?どうして何か変わりは、ありませんか?とクエッション・マークで聞いてくださらないのでしょう?断定されるように何もありませんね!と言われたら我々患者は何か質問したくとも、何も言えません」

びっくりしたようなお顔をなさってから部屋を出ていかれた担当医は翌朝、部屋に入るなり「何も変わりありませんか?」
私は嬉しくなって「先生、ありませんか?と聞いてくださいましたね?ありがとうございます、何も変わりありません」

退院の間際になって,我々は小さな歩み寄りが出来たのでした。

2007/9/24 月曜日

退院作戦

Filed under: エッセイ, 骨折日記 — patra @ 6:48:16

「失礼ですけど、貴女は何処がお悪いの?」そう声をかけてくる同室の患者さんもいるくらい、はた目に私は元気に写っていたようですが、只の骨折にしてはどうも松葉杖練習もせず、何処をどうしたの?と疑問を持たれたのです。
看護師さんさえ「申し訳ない不勉強なんですが、何故イチダさんが立ち上がりが不自由なのか、始めは分かりませんでした」とお風呂介助の時にも言われました。

普通の骨折患者は骨が付かなくとも松葉杖の練習をし歩くことは、両足不自由でも、結構上手に出来るものなのに、手の力も弱い私は「一般的」なリハビリはかえって危険なのだ。ピックアップで歩行練習するにも肩に力が入ってしまう。
つまり腕や脚の骨の力で立っているようなもの・・・腕も手の平も真っ赤になってしまうくらい負担がかかるのです。
先天性ミオパチー患者が骨折し入院するのは、きっと病院側も初体験なのでしょうから、こうなったら自分の身は自分で自宅リハビリをしよう・・・と伝えると、
「え〜珍しいですね、皆さん,病院から出るのを嫌がるのに・・」リハビリ療法士の先生が驚きます。
いくら病院で慣れても自宅で慣れなくては意味がありませんから!と私も腹を決めました。
早速、アビリティ−ズ社に電話を入れておいた座面が高くなるグッズ等を病院へ持ってきてもらう事にしました。

リハビリグッズではブランドとして有名なアビリティーズ社はすぐにデモ商品を山にして病院へ運んで来ました。何事か?と目を丸くする看護師さん達。

車椅子は今まで座ぶとんを敷いて座高を上げていましたが、空気圧で座面を高く調節できるロホ・クッション、弾力があってとても具合が良いので、10センチの高さを自費でお借りしました。本来ならば病院に備え付けてあってしかるべきクッションなのです。
これを車椅子に敷いて立ち上がりを練習したら、手すりに掴まりながらもその日の内に立ち上がれました。レンタル料は月5千円です。
其の時、座面から立ちあがるバネ状の跳ね上げ式とかも推薦されたのですが、脚がしっかりしていない私には、かえってバネの勢いが怖かったので、これは却下。
滑り止めのシートも奇麗な緑色のチェックを自宅用に2メートル購入。日本製と違い洗っても効果が落ちない上に汚れも付きにくい利点がある置くだけの(接着剤なしの何度でも剥がせる)シートです。

私が欲しかった椅子、自動で上下しブレーキが手で届く範囲にあるアメリカ製の事務椅子がやはり気に入りました。回転に85センチあれば良い小回りが利く椅子です。
問題は値段、自費で購入するには2拾数万も掛かるのです。
介護保険で借りるには、障害の判定が2以上なくては借りられません、その判断は担当医の診断書を元に区役所が査定をするので1ヶ月ほど時間がかかります。

担当医に書類をお願いをする。
「それは退院する時でしょ!」・・もう待てない私。
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2007/9/18 火曜日

アキレス腱炎になる

Filed under: エッセイ, 骨折日記 — patra @ 7:49:50

4/24日
靴の型どりをしなおす。
頼んでおいた看護師さんが来なかった。不誠実だとおもう。
石膏のついた包帯を水で濡らし足に巻き付けて、固まりかけた所でカッターで切り
それを元に原形を作るらしい。ヒールを履いた状態にして型を取りました。
私の書いたデザイン画と同じヒールの高さで型が取れた!と感心される。

4/25日
担当医が来て「右足の膝にボルトが当たっているが、取るにしてももっと1年先じゃないと手術できないから我慢して!」と言われる。
実は何ともなかった膝が、立って居る練習を始めたと同時にリハビリ療法士が「立つ!って言うことは立ち上がる!ってことだから車椅子から立つ練習が大事ってことです!!」と立ち上がり練習を強要したせいで膝を捻ってしまったからです。

論理は分かるけど、筋肉の弱いミオパチー障害は立ち上がる行為が一番苦手、ズボンの後ろを持っていただき立たせてもらってやっと立っていられるだけが今の状態なのに、45センチの低さの車椅子からは今までさえ、立てたことは1度も無い。
家にバースタンドを作ったのも、一々低い椅子から立ち上がるのは体力を消耗するだけ無駄なので立ち上がり易いバースツールにしているくらいだ。
何度説明しても今時の語尾を上げる口調で「で〜も、立つ!!と言う事わぁ!立ち上がるって事がぁ出来なければぁ」を繰返すばかり。

内心、前に出来なかった事が急に出来るわけないじゃん、戯け!と若い療法士の遣り口に腹が立ってしかたが無かったがせっせと苦しい練習をしている内、完全に痛めてしまったようだ。これは退院した今でも痛い。

4/28日
骨はモヤっと出来かけているらしい。
前後して部屋の人達が退院、とうとう骨折組み2人だけになる。連休中に何としても立ち上がっりが出来るようにしよう!堅い決心をして、アビリテーズ社に電話を入れる。この整形外科のどの設備も私には不備で家に居るより不便極まりないからリハビリにもどんどん信頼性が失われつつあったのだ。エレベーターまでセンサーが効かずに挟まれるアクシデントが2回もあった。

5/5日
柏餅がついたのが愛嬌だった。ノリがローストビーフを持って来てくれる。

5/7日
帰るために頑張ってリハビリをしていたが膝が痛くてたまらない。
この侭、金具を入れっぱなしにしたい先生は「我慢して・・」と言うばかり。説明が今一つ納得がいかないので看護師に伝えると「じゃ先生を変えますか?」に呆れる。そんな事で責任を摺り替えられるのは困る。私の障害が治療に邪魔なのは確かなのだが、問題意識を高めて欲しいだけなのに・・時間が無くてコミュニケーション不足。

5/8日
夕方突然部長先生が回診で見え「どうイチダさん!リハビリの成果、見せてよ!」と元気な声で「左足はしっかりついたけど右は未だ無理、このまま付かないと再手術も考えなきゃな、無理しないでね」に仰け反る思い。他の先生方にも「今まで出来なかった事は無理させないようにね、元々筋肉が弱いんだから!」と念を押してくださる。家から高い椅子も持って来て良いとのこと。

5/9日
ついに満室になる。

5/10日
骨がつきつつあるのが分かったので大分リハビリに精が出る。腰揚げ練習も前屈みだと上手にできるようになった。今日で丸3ヶ月過ぎたわけだ。

5/11日
何となくだけど担当医が愛想が良く成った気配・・大好きな可愛い天使看護師さんが「もっと良く話を聞いてあげてください」とカンファレンス時に直訴してくれたそうです。可愛い子が気立てが良いんだから、そうで無い人は意地悪だったら浮かばれないのに・・と独り言を言ったら前の御夫人が吹き出していました。
その夜は看護の日とか・・下のロビーで音楽会がありました。筋肉自慢なのか二の腕を何時も出してる強面のおじさんが車椅子を会場まで押してくれました。
ふしぎに皆さん足が悪くなる経験をすると、とたんに親切になるなぁ・・・
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2007/8/18 土曜日

人間の尊厳は

Filed under: エッセイ, 骨折日記 — patra @ 1:18:23

病室で書いていたメモを見ると電動ベッド(上下に加え頭、足部分等が稼動する音声つき)が届いたのは2月20日になっています。リハビリ室へ行ってる留守の間に取り替えてあったようで、<これで日中自由に自分でベッドを起こし座っていられる・・・>とありました。それまでは手動でベッドの上げ下げをしてもらっていたので遠慮していたのだろう?

メモによると手術の翌日15日にベッドから車椅子へ乗り移る練習の為にリハビリ室から2人の男女先生が来ています。包帯に巻かれた両足を伸ばしたままの私を一体どうするのか?見ていたら・・女先生が黒いカーボン状の撓る板をベッドと車椅子の手すりを跳ね上げた座面に渡してその上を滑るようにして乗り移るのだ!と説明してくださる。ひゃ〜滑り台ね!成る程。
パジャマのズボンの後ろを持上げてボードへ乗せてくださる・・・女先生に両足を持っていただき自分でもズリズリと滑ってみると簡単に車椅子へと乗り移れました。両足は車椅子から突き出した長い板に乗せたまま・・。
ちょうど見舞いに来ていた姉がすっかり感心する手際の良さです。
反対に車椅子からベッドは高さが逆でちょっと大変でした。

閃いた私はベッドを車椅子の座面より低くしていただき、やっぱり高い位置から低い位置へ・・・滑り台の原理を利用して試みたら楽勝で成功!。一々ベッドを手動で動かすのは人手も労力も大変なので電動ベッドが欲しかったのですが、思ったより取り替えていただくまでに時間がかかっていたのですね〜。機械で膝を曲げる運動も15日から午前と午後2回、1時間づつ忙しい日々がはじまりました。

16日からは昼食の後1階のリハビリ室まで看護師さんに連行?されながら何人かの患者さんたちとカルガモの行列のように並んで長い廊下を行進です。必死で車椅子を漕ぎながら皆で渡れば怖く無い♪状態は妙にかわいい行進です。
若い子や老人もみな仲間、同病合憐れむとばかり、すぐに仲良くなりました。

リハビリは広い部屋のそれぞれの台の上やマットの上で障害の程度に合わせた運動をするのです。私は端ッコのピンク色のチルドシートが定席の場所。
ピクリとも動かない両足にロープを掛け天井から下がった滑車を利用し自分の脚を上下させる運動から始め、ボールを膝に挟んで押し付けたり、三角の台を膝下に入れ足を片方づつ上げる?といった地味な運動を8種類くらい1時間ほど繰返すのを骨がつくまで続けたわけです。ちなみに痛み止めはこのリハビリの前に飲むだけに自分の意志で止めました。

17日のメモには部長先生が夕方「リハビリの先生に聞いたけどもっと手で身体を支える運動をしなきゃダメ!覚悟しないと!」と宣告される。身体を支える為の手の運動をするとアっと言う間に甲に内出血してしまう軟弱さに我ながら情けないが全くお尻が上に持ち上げられない。リハビリの先生は誉めてくれたのにどうやらお世辞だったか・・・とがっくりする。その夜問題が・・・。

2月21日ダイブ動けるようになったがまだお尻が持ち上げられない・・
2月22日今日洗髪していただく・・とある。入院12日目にやっと洗髪とは情けない。

ドライシャンプーやアルコールで自分でメンテナンスを試みていたが限界もあったのだろう必要最低限の要望です!というメモが残っていて当時の辛さが蘇ります。

(1)毎朝起きたらすぐに歯を磨きたいので顔拭きの時、水飲みに水を入れベッドを起こして欲しい。歯磨きの水は食後3度3度交換して欲しい。

(2)トイレは自分の意志では働かないのでそちら側で必ず時間を取って欲しい、レシカルボンを必ず用意して欲しい。

と書いてあった。電動ベッドが来るまでの10日間、慣れない入院生活に随分遠慮もあった私だが看護側から人間の尊厳にたいする配慮がなされていずに17日に大爆発して怒ってしまってからは、やっと整形の看護師全員が注意深く優しくなったのは事実である。後に親しくなった看護師さんは「患者さんが遠慮して言い出せないなんて考えもしませんでした。イチダさんの抗議はとても勉強になりました」と言われ反って驚く始末。授業と実際とでは違うのだろうが、すべての看護師が自分がもし患者の立場だったら・・・と考えていただければ解決する問題だ。
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